AIとの対話で「承認欲求」という言葉がちょいちょい出てくるようになって、なんだかモヤモヤしていました。
「承認欲求」って、私には何かネガティブなイメージがある。
「満たされてない人」「それがあるのはよくない」みたいな。
でも、誰かに喜ばれたら嬉しい、役に立ったら嬉しい。
子どもは親に「すごいね」って言われたい。
そういうのって、誰もが持ってるものじゃないのかな?
それって「欠けてる」ってことなのかな?
身近な人に聞いてみた
それって「感謝」という言葉と同じだよね、と姉は言った。
世間では「感謝はするもの」と言われるけど、私たちは「自然に湧き上がるもの」だと思ってるよね。言葉は同じ「感謝」だけど、感覚は違う。
「承認欲求」も同じ。
自分の承認欲求を満たすために、誰かを犠牲にするとか迷惑をかけるのが、よくないイメージなんじゃないかな。
承認が貰えなくても「残念だけど、しょうがないよね」と言えるような、健全なものならいいんじゃないかな。
あと、承認欲求じゃなくて共有なのかもしれない、と思うこともあるよ。
「一緒に見ようよ」「楽しいよね」と言われたとき、一瞬承認欲求なのかと思うけど、ただ「一緒に見たい」「楽しいと思った」事実を共有しただけなのかもしれないよね。
自分の場合を分けてみた
姉の話を聞いて、なるほど、と思ったので、AIとさらに深掘りしてみました。
親に対して:
ダメ出しされるばかりじゃなくて、「頑張ってるね」「まあいいんじゃない」くらい言ってほしいと思う。 これは承認欲求だと思う。否定されたくない、認められたい。
人のために無理したとき:
自分がやりたいわけじゃないけど、誰かのためにやった。
自分にとって、さらっと出来ることじゃないことを頑張った。
それは、自分が相手のためにしてやりたかったからだと分かってるけど、「嬉しい」「ありがとう」と言われるとやっぱり嬉しい。
でも、言われなくても「まあ、しょうがないよね」と思える。
これは健全な承認欲求。
ワークシートを作ったとき:
「すごいね」と言われるより、実際に使われてるかを知りたい。
ダウンロード数が伸びてる、記入して報告してくれる人がいる。
そういう「使われてる事実」が嬉しい。
これは承認じゃなくて、確認だと思う。
自分がすごいと思ったこと:
近しい人に「すごくな~い?」と言ってしまう。
これは承認を求めてるんじゃなくて、一緒に喜びたい。共有したいだけ。
逆に、自分で大したことないと思ってることに「すごいね」と言われると、「えー」って感じがする。
一括りにされてた
親に対する気持ち、人のために無理したときの気持ち、ワークシートの反応を待つ気持ち、近しい人に話すときの気持ち。
全部まとめて「承認欲求」って言われてた。
だからモヤモヤしてたんだと思う。
言葉が分かれると、自分の感覚がすっきりクリアになりました。
防衛的な承認欲求、健全な承認欲求、確認欲求、共有欲求。
私が求めているものは、場面によって全然違うことに気づきました。
「承認欲求」で止まらない
「承認欲求がある」で片づけてしまわないで、もう一歩進んでみる。
自分が本当に求めてるものは何なのかな。
承認?確認?共有?
それとも、もっと違う何か?
分けて考えてみると、自分の感覚がクリアになってスッキリするかもしれない。
あなたが求めてるのは、何ですか?
